| 阿曽岡・権現堂遺跡(あそおか・ごんげんどういせき) |
| 富岡市宇田字阿曽岡、字権現堂にあり、鏑川の支流である高田川と丹生川の合流地点西側に立地する。1994年にほ場整備事業に伴って、現状保存が不可能な範囲について富岡市教委が発掘調査した。調査面積は約1万8500平方メートルで、弥生時代中期から平安時代までの竪穴住居約280、古墳3などが調査された。弥生時代中期には、平地部の権現堂地区に竪穴住居3棟と小規模なものであるが、環濠集落がつくられる。後期になると集落は平地部にとどまらず、独立丘陵の阿曽岡上部にも多数の竪穴住居が造られ、大規模な集落に発展する。次の古墳時代前期は、丘陵上は2基の前方後方墳や方形周溝墓が築造される墓域となり、集落は平地部に移る。丘陵上には古墳時代後期に再び多数の竪穴住居が造られる。平地部には古墳時代以後奈良時代から平安時代まで引き続き竪穴住居が造られており、高田川流域の拠点的集落であったと考えられる。
丘陵上の前方後方墳(1号墳、2号墳)は、鏑川流域では北山茶臼山西古墳に次ぐ発見である。1号墳は、丘陵北辺の中央部に立地し、全長は推定で約40メートル、埋葬施設はすでに削平され確認できなかったが、南側および西側の一部に周溝があり、台付甕や坩などの遺物が出土した。2号墳は丘陵の東端に立地し、全長約56メートルである。周溝は墳丘の南側に掘られており、後方側の2カ所に幅約2メートルの陸橋状部分があった。この周溝からは、底部穿孔で赤彩された小鉢が2点出土したほか、後方部上に置かれていたと考えられる底部穿孔壷形土器が周溝の中に転落した状態で点々と出土している。盛土は、後方部の一部以外残っておらず、埋葬施設は確認できなかった。また権現堂からは古墳時代後期の竪穴住居内に埋まった土の中から石釧片が出土しており、本来どちらかの古墳の副葬品であったと考えられる。この2基の前方後方墳は、甘楽富岡地域の出現期の古墳であり、2世代にわたり高田川流域を支配した首長の墳墓と考えられている。出土遺物は富岡市教委に保管されている。〈腰塚徳司〉 |
| [文献] ◇『東八木遺跡 阿曽岡・権現堂遺跡』 富岡市教委 1997 |