芦田貝戸遺跡(あしだがいといせき)

  高崎市街地の北北西約4キロメートルの浜川町字芦田貝戸にあり、榛名山東南麓の相馬ヶ原扇状地が前橋台地に移行する標高112メートル前後の井野川右岸に立地する。1978年から1980年にかけて市立女子高校(現高崎経済大学附属高校)建設に伴って高崎市教委が、1992年に送電線鉄塔建て替えおよび北陸新幹線建設に伴って県埋文事業団が、1992年から1993年に浜川プール建設に伴って高崎市教委が発掘調査している。古墳時代から中世までの複合遺跡で、浅間山や榛名山の火山噴出物や、榛名山の噴火に伴う洪水によって2メートル以上も堆積した土砂に埋没した水田や畠が重層的に、かつ広範囲に調査され、生産遺跡の実態が明らかにされた。

 最下層に位置するのはAs-Cに埋没した水田で、小規模な谷地状低地とその東西に広がる平坦地にも東西方向の長方形を基本とする水田が整然と形成されている。Hr-FAの下からも水田や畠が見つかっている。この時代の水田は、大畦に囲まれた中を小畦で直線的に区切る小区画水田で、平均3平方メートルときわめて小さい区画が碁盤の目状に整然と並んでいる。田面のようすの違いから小区画形成の工程が分かり、田面に残された人の足跡からは噴火直後の水田復旧の農作業の様子が分かった。馬蹄跡からは6世紀初頭段階で既に馬が飼育されており、何らかの形で馬が農作業にかかわっていた可能性があることなども示され、古墳時代農業の実態に迫る資料が得られた。また、水田域の端には上幅約10メートル、深さ約3.6メートルもある大溝が140メートルにわたって見いだされ、土師器や須恵器、滑石製模造品などを使った祭祀跡がその両わきで見つかり、水田面や畠わき、大畦の中から出土した祭祀関係遺物などとともに耕地や用水に対して行われた祭祀を知る手がかりを与えてくれる。その上層の水田はHr-FPの下にあり、再び水田耕作が行われるまでに1メートル以上も土砂が堆積している。この水田も小区画であるが畦の方向や水路の位置などがHr-FA下水田とは異なっている。

 As-Bの下でも水田が見つかっているが、井野川寄りの場所は集落域となり、水田域は遺跡の西側寄りに限られてくる。古墳時代以来の洪水による土砂の堆積が地形を変化させ、土地利用形態をも推移させた好例である。出土遺物は高崎市教委および県埋文センターに保管されている。〈田村孝〉

[文献]
◇『芦田貝戸遺跡』II・III 高崎市教委 1980・1994

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