軽石がたくさんつもってしまった地域では、軽石をよせて「灰かき山」とよばれる軽石の山をつくったり、「灰かき穴」とよばれる穴や溝をほってそこに軽石をうめて、今日まで耕作を続けてきました。泥流の被害をうけた場所でも、災害復旧(さいがいふっきゅう)にとりくみました。林下原U遺跡の例をみてみましょう。

 
発掘された石垣
写真の石垣のうち上の部分は現在も畑の境として使われていた石づみで、泥流の被害直後に積まれたものです。その真下から天明3年当時の石垣が見つかりました。2m近くある厚さの泥流被害にあってから、もとの石垣の上に石をつみ上げたのですから、泥流に埋まってからも古い石垣の位置を確認しもとの地境(じざかい)を復旧させようと取り組んだようすが伝わってきます。

 発掘調査では、記録には残されない一人ひとりの汗の結晶もよみがえってくるのです。伝えられている記録では、泥流の被害にあった村々に対して幕府の役人が群馬を訪れたのは大噴火から2週間後、正式に救済対策が決まったのは2カ月ほどあとのことです。災害にあった人々の生活をいち早く援助したのが、嬬恋村の黒岩長左衛門、干川小兵衛、吾妻町の加部安左衛門、中之条町の町田延陵という人たちでした。困ったときには、できる人がお互いに手を差し伸べ、助け合おうとする世の中だったんですね。
 犠牲にあった人たちの供養(くよう)も多くの場所でおこなわれました。吾妻川や利根川沿い、東京の江戸川沿いなどにも多くの供養碑や記念碑が残されています。