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この噴火は、天明3年の5月〜8月にかけての3ヶ月におよぶものでした。 まず、5月に最初の噴火があり、6月には各地に多くの火山灰を降らせました。7月には北側に軽石を降らせるなどの大きな噴火がありました。その間にも小さな噴火をはさみながら7月末から本格的な噴火活動が始まりました。8月2日には噴煙柱(ふんえんちゅう)と呼ばれる煙をあげながら噴火を開始、軽石は前橋や高崎がある東南東方向へ厚くつもりました。この大噴火は8月5日まで続きました。8月4日には吾妻火砕流が発生、北東側へ流れ下りました。北軽井沢の別荘地南部をおおっているのが、この火砕流です。
運命の8月5日、噴火とともに鎌原火砕流(かんばらかさいりゅう)が発生し、土石なだれとなってふもとの鎌原村をおそいました。その後、土石なだれは吾妻川に流れ込み、水とまざって泥流となりました。一方は利根川から太平洋へ、他方は江戸川から東京湾へと流れくだっていったのです。その途中、多くの人々をのみ込み、1400名以上の犠牲者(ぎせいしゃ)を出しました。そして、火口からこの鬼押出し溶岩が噴火の最後に流れ出たといわれています。
噴火の直接の被害は、長野県側から前橋や高崎方面にかけて降った大量の軽石による東北東方向でのもの、鎌原村をのみ込んだ土石なだれ、吾妻川や利根川を流れ下った泥流によるものの3つに分けられます。また、噴火がおさまってからも、その影響は大きく、天明の飢饉(ききん)に大きな追いうちをかけたといわれます。 |