−遺跡出土の紡錘車をめぐって 弥生、古墳、奈良、平安時代 中沢研究員−
 
石製紡錘車(多胡蛇黒遺跡出土)
石製紡錘車(多胡蛇黒遺跡出土)
鉄製紡錘車(鳥羽遺跡出土)
鉄製紡錘車(鳥羽遺跡出土)

 群馬は古代より機織(はたおり)が盛んなところ。遺跡を発掘すると数多くの紡錘車(ぼうすいしゃ)が出土します。紡錘車とは繊維(せんい)に撚(よ)りをかけて糸を紡(つむ)ぐ時に使う弾(はず)み車のことです。
糸を紡ぐようす
糸を紡ぐようす

 紡錘車は土製と石製と鉄製があります。土製は弥生時代から古墳時代前期に多く、石製は古墳時代中期以降平安時代まで使われています。この石製の紡錘車は良質な蛇紋岩(じゃもんがん)や滑石片岩(かっせきへんがん)を加工してつくられます。これらの石は鏑川流域(かぶらがわりゅういき)を中心として産出するために、富岡市・吉井町・甘楽町を中心に生産され県内各地に供給されていたようです。そのことはこの流域の遺跡を発掘すると大量の紡錘車の出土と紡錘車をつくった工房の跡がみつかることより明らかになりました。鉄製は古墳時代からわずかに使われますが、平安時代に多く使われるようになります。ただし鉄製が増加しても平安時代でも石製が使われなくなることはなかったようです。
 石製紡錘車の中には、文字や絵また放射状の刻みを持つものがあります。書かれている文字は人名と地名が多く、「福」や「美」と行ったような吉祥(きっしょう)文字は少ないようです。絵には家が描かれたものがあります。きれいに磨かれた紡錘車に、ノミを用いた荒い簡単なものと、鋭い刃物で複雑な文様を描いた物があります。いずれも製作され供給された後に刻まれていることより、特定の目的のために刻まれたものも多いが、所有者を識別するために刻まれた物も多く存在していると思われます。

絵や文字の刻まれた紡錘車
絵や文字の刻まれた紡錘車
(左の図は、沼田市の戸神諏訪2遺跡から出土した紡錘車です。側面に寺の線刻画や文字が刻まれています。右の図は吉井町の矢田遺跡から出土した紡錘車です。「八田郷」「大」という文字の線刻があります。どちらも、平安時代のものです。
石製紡錘車の断面形
石製紡錘車の断面形

県内の紡錘車(ぼうすいしゃ)の動向

県内から出土した紡錘車は、材質や形の変化から大きく3段階に分けられます。

1段階 材質が土製で断面形が長方形(弥生時代〜古墳時代前期)
2段階 材質が石製で断面形が台形(古墳時代中期〜奈良時代)
3段階 材質が石製で断面形が台形+鉄製の紡錘車(平安時代)
さらに約100年を単位として変化を表現したのが次の表です。

 
群馬県内における紡錘車の変貌
群馬県内における紡錘車の変貌

 表で明らかなように、第1段階の弥生時代から古墳時代の前期までは土製で断面形が長方形の紡錘車が圧倒的に多く、石製で断面形が長方形のものは使われていません。ほかに三角形で土製のものと石製のものが少量使われています。
第2段階の古墳時代中期になると断面形が台形の石製紡錘車が使われるようになり、以後平安時代まで主体的に使われています。鉄製の紡錘車は古墳時代後期で一部使用されていますが、奈良時代からやや多くなり、
第3段階の平安時代に一気に増加し10世紀以降石製紡錘車を追い抜き、紡錘車の主体となっています。しかし鉄製紡錘車の出現で石製紡錘車は減少していますが、消滅することなく両者とも継続的に使われています。